おもしろいことをたくさんしたい
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みなさんは国語が得意でしょうか。
私は中学受験の時に正しい答えを解答できないとチョークを飛ばしてくる雨上がり決死隊の蛍原似の国語と社会の担当の厳しい先生の指導のおかげで大学受験の際もほぼ現代文の勉強をせずに乗り切る事ができました。
論説文では段落ごとに言いたい事を短く読み取る、ぐらいで大体できましたが、五里霧中の中にあったのは小説の文章での記述問題でした。
小学生の自分は記述問題などで「このような行動を取ったのは何故か」のような問題は本文を読んで正直自分の感じ取ったように答えていました。そして、なかなか適当な点数しかもらえませんでした。私は国語の読解での記述問題というのはいかに感受性豊かか、いかに登場人物の心情を感じ取るか、という事が問題であると思っていました。
しかし、蛍原似のその先生の登場により私のその持論は一変してしまいます。
その先生が言うには人の行動は大きく分けると2つに分別する事ができる。それは
1.目的
2.感情
である。
1.の目的はそのままで、例えば「なぜ走ったのか」と問われれば「遅刻しないため」など「~ため」という風になります。
2.の感情はまた小さく3つに分ける事ができます。
2-1.気持ち
2-2.欲求
2-3.思考
となり、2-1.気持ちでは、例えば「なぜ泣いたのか」となると「悲しい気持ちだったから」など「~気持ちだったから」という風になります。2-2.欲求では、例えば「なぜ傘をさしたのか」となると「濡れたくなかったから」など「~(したかった)から」という風になります。2-3.思考では「なぜ肩を叩いたのか」となると「知人だと思ったから」ななど「~思ったから」という風になります。
つまり「なぜ○○したか」と問われた時、行動の目的、気持ち、欲求、思考を考え、そしてその目的、気持ち、欲求、思考になった原因を本文中から抜き出して記述すればそういった問題は解けるというもので、実際にその方法で読解問題の点数はバシバシ採れました。
今でも忘れもしない、まさに青天の霹靂のような衝撃の問題がありました。それはミシャエル・エンデの「モモ」という小説の一説からの問題でした。「モモ」という小説のあらすじを簡単に言うと、人々に時間の節約をさせ、その時間を盗んでしまう時間泥棒という灰色の怪人が現れ、その怪人をモモという自然児が倒し人々に時間を取り戻すというものです。
この「モモ」の中でモモは主人公であり、すごく素朴で純粋な子供です。普通の人々が自分の価値観ではなく、周りから与えられた価値観に流され嗜好品を追い求めるのに対して、モモは綺麗な貝殻やビー玉などのものを好みます。
ここで勘違いして欲しくないのは貝殻やビー玉などを綺麗と思い大切にするという「いかにもこいつ純粋ぶってやがるぜぇぇえ」って奴ではないという事ではなく、モモは他人にとってはゴミ同然のような物でも気にせず、確固たる自分の価値観に従い大切にしているという事です。つまり、他の人たちは自分の価値観よりも他人がそれをどう思うかという他人の価値観を重視してしまっているという事です。
この「モモ」の中からの問題は、時間泥棒がモモに人形をプレゼントし、モモになんとか時間をせかせかと節約させようとする場面からの出題でした。時間泥棒は綺麗な洋服が多く揃えられている多くの子供が欲しがるような最新型のお人形を、このお人形でずっと遊べるとモモに誘いをかけます。町にいるような女の子はそんな人お形に夢中になるはずですが、モモはその人形で一体どのように遊べばいいのかわらかないので、いらないと断ってしまいます。時間泥棒は人に時間を節約させないと手が出せないので、戸惑ってしまいます。
問題は「この人形は一体どのように遊ぶものか」というものでした。私は感受性豊かなところをこれ見よがしに見せようと思い、勝手に想像力を膨らませ「人形と自分を重ね合わせ、まるで自分がその服を手に入れたかのように想像して遊ぶ」と答えましたが正しい解答は「多く揃えられているお洋服を人形に着せ替えて遊ぶ」というまったく普通なものでした。
まったくもって普通すぎる解答に私は眩暈がしたのを覚えています。正直、そんな解答でいいの!!!と思ってしまいました。しかし、本文に書いてあるその人形の遊び方はそれしかないのです。本文にそれしか書いてないのだから、それが答えなのです。
私の解答は何やらもっともらしいですが、これは私が本文を読んで勝手に考えた全くのエゴだったのです。全く持って単純な問題でしたが子供ながらに決定的な出来事でした。私は本をよく読んでいたので読解能力には自信がありました。しかし、よく物語を理解できていると思っていた読み方は単なるエゴだったのです。勝手に自分が自分に都合のいいように想像力を膨らませ答えを導き出していたのです。
よく先生が生徒に答えを聞いた後に言った言葉は「その答えを裏付ける文章は本文中のどこにありますか」というものでした。答えは全て本文中にある。逆に本文中になければ、答えは1つに定まらず国語の問題にはならないのです。理由となる文章を本文中から指摘できなければ、いかにももっともらしい答えであろうがそれは単なるエゴなのです。読解という作業は予想以上に論理的な作業であると打ちのめされた時でした。
この国語の読解は対人関係に非常に影響していると思います。もっとも難しい読解の問題は他人の心です。質問や観察などにより、よほど的外れな考えをしなくてすむかもしれませんが、他人が本当はどう思っているかは、それが他人である以上永久にわかる事はないでしょう。例えその他人が本当の事を語ってくれて、それが嘘であるという可能性が0%に収束していっても、決して0%にはならない。
「他人の気持ちを察する」という行為には、どんなに相手を理解していると自負していても必ず少なからずエゴが紛れ込んでいるはずなのです。「俺、めっちゃ他人の事思いやれてるわ~~~」と悦に浸っている奴が気持ち悪いのは、他人の事を深く思いやられている「美しく献身的な自分」しか見ておらず、自分は無償で他人のためになれていると勝手に妄想している「エゴイスティックな自分」は見ておらず、ましてやそんな自分が存在しているなどとは想像もしていないから。勝手に思っているほど他人は単純ではないはずです。
私は以上の事より他人への100%献身的な態度などはありえないと思います。全ての動物は自分にとって無益な事は決してしないのです。人間の全ての行動は、その行動をした人自身になんかしらの形によって利益をもたらしているものだと思います。全くの無償の行動など有りはせず、そんな行動は敗北です。
「友人を慰めてあげた」などの行為をして『私は「友人を慰めてあげてる自分、かっこいい!」などのエゴイスティックな気持ちは全くなかった』と、何やら無償の献身と勘違いしてしまういけ好かない野郎は山ほどいますが、それは気味の悪いオナニーのような思惑が本当に心になくとも、「自分の友達が慰められた」という利益が自分自身に還元されているはずです。人はもっとエゴイスティックな自分に気づけば生きやすくなると思います。
あと、あまり関係ありませんが「モモ」のモモと時間泥棒と「千と千尋の神隠し」の千尋とカオナシはなんか似てますよね。
時間泥棒は人々にまるで必要のない時間節約の必要性、価値観を説きます。人々はその価値観を刷り込まれてしまい、自分の価値観ではなくその時間泥棒の価値観により自分自身のためではない(時間泥棒のための)時間節約を初めてしまいます。しかし、モモはまるで時間を節約する必要性を感じないため最後まで他人(時間泥棒)のための時間を節約しません。
カオナシは他人が望むものを何でも出す事ができます。周りの人々は自分が望むもの(あの映画では金)に色めき立ちますが、千尋はカオナシが出すものにまるで興味を示さないため千尋に手が出せない。
千尋は正直それどころじゃなかったのかもしれませんが、千尋もモモも全く悪意のない、自分への純粋な利益を考えていると思います。「モモ」の人々は「自分のためにしている」と思っているが時間節約は結局時間泥棒へのためでしたし、「千と千尋の神隠し」の人々は「自分のために金を集めている」と思っているが、その金の価値は自分だけの価値観ではなく他人がどれだけ価値があると思っているか、という事に重きが置かれている。
別に自分への純粋な利益は我儘ではないのです。いかに自分の行動の原因に他人の価値観が混ざりこんでいないかだと思います。
私は中学受験の時に正しい答えを解答できないとチョークを飛ばしてくる雨上がり決死隊の蛍原似の国語と社会の担当の厳しい先生の指導のおかげで大学受験の際もほぼ現代文の勉強をせずに乗り切る事ができました。
論説文では段落ごとに言いたい事を短く読み取る、ぐらいで大体できましたが、五里霧中の中にあったのは小説の文章での記述問題でした。
小学生の自分は記述問題などで「このような行動を取ったのは何故か」のような問題は本文を読んで正直自分の感じ取ったように答えていました。そして、なかなか適当な点数しかもらえませんでした。私は国語の読解での記述問題というのはいかに感受性豊かか、いかに登場人物の心情を感じ取るか、という事が問題であると思っていました。
しかし、蛍原似のその先生の登場により私のその持論は一変してしまいます。
その先生が言うには人の行動は大きく分けると2つに分別する事ができる。それは
1.目的
2.感情
である。
1.の目的はそのままで、例えば「なぜ走ったのか」と問われれば「遅刻しないため」など「~ため」という風になります。
2.の感情はまた小さく3つに分ける事ができます。
2-1.気持ち
2-2.欲求
2-3.思考
となり、2-1.気持ちでは、例えば「なぜ泣いたのか」となると「悲しい気持ちだったから」など「~気持ちだったから」という風になります。2-2.欲求では、例えば「なぜ傘をさしたのか」となると「濡れたくなかったから」など「~(したかった)から」という風になります。2-3.思考では「なぜ肩を叩いたのか」となると「知人だと思ったから」ななど「~思ったから」という風になります。
つまり「なぜ○○したか」と問われた時、行動の目的、気持ち、欲求、思考を考え、そしてその目的、気持ち、欲求、思考になった原因を本文中から抜き出して記述すればそういった問題は解けるというもので、実際にその方法で読解問題の点数はバシバシ採れました。
今でも忘れもしない、まさに青天の霹靂のような衝撃の問題がありました。それはミシャエル・エンデの「モモ」という小説の一説からの問題でした。「モモ」という小説のあらすじを簡単に言うと、人々に時間の節約をさせ、その時間を盗んでしまう時間泥棒という灰色の怪人が現れ、その怪人をモモという自然児が倒し人々に時間を取り戻すというものです。
この「モモ」の中でモモは主人公であり、すごく素朴で純粋な子供です。普通の人々が自分の価値観ではなく、周りから与えられた価値観に流され嗜好品を追い求めるのに対して、モモは綺麗な貝殻やビー玉などのものを好みます。
ここで勘違いして欲しくないのは貝殻やビー玉などを綺麗と思い大切にするという「いかにもこいつ純粋ぶってやがるぜぇぇえ」って奴ではないという事ではなく、モモは他人にとってはゴミ同然のような物でも気にせず、確固たる自分の価値観に従い大切にしているという事です。つまり、他の人たちは自分の価値観よりも他人がそれをどう思うかという他人の価値観を重視してしまっているという事です。
この「モモ」の中からの問題は、時間泥棒がモモに人形をプレゼントし、モモになんとか時間をせかせかと節約させようとする場面からの出題でした。時間泥棒は綺麗な洋服が多く揃えられている多くの子供が欲しがるような最新型のお人形を、このお人形でずっと遊べるとモモに誘いをかけます。町にいるような女の子はそんな人お形に夢中になるはずですが、モモはその人形で一体どのように遊べばいいのかわらかないので、いらないと断ってしまいます。時間泥棒は人に時間を節約させないと手が出せないので、戸惑ってしまいます。
問題は「この人形は一体どのように遊ぶものか」というものでした。私は感受性豊かなところをこれ見よがしに見せようと思い、勝手に想像力を膨らませ「人形と自分を重ね合わせ、まるで自分がその服を手に入れたかのように想像して遊ぶ」と答えましたが正しい解答は「多く揃えられているお洋服を人形に着せ替えて遊ぶ」というまったく普通なものでした。
まったくもって普通すぎる解答に私は眩暈がしたのを覚えています。正直、そんな解答でいいの!!!と思ってしまいました。しかし、本文に書いてあるその人形の遊び方はそれしかないのです。本文にそれしか書いてないのだから、それが答えなのです。
私の解答は何やらもっともらしいですが、これは私が本文を読んで勝手に考えた全くのエゴだったのです。全く持って単純な問題でしたが子供ながらに決定的な出来事でした。私は本をよく読んでいたので読解能力には自信がありました。しかし、よく物語を理解できていると思っていた読み方は単なるエゴだったのです。勝手に自分が自分に都合のいいように想像力を膨らませ答えを導き出していたのです。
よく先生が生徒に答えを聞いた後に言った言葉は「その答えを裏付ける文章は本文中のどこにありますか」というものでした。答えは全て本文中にある。逆に本文中になければ、答えは1つに定まらず国語の問題にはならないのです。理由となる文章を本文中から指摘できなければ、いかにももっともらしい答えであろうがそれは単なるエゴなのです。読解という作業は予想以上に論理的な作業であると打ちのめされた時でした。
この国語の読解は対人関係に非常に影響していると思います。もっとも難しい読解の問題は他人の心です。質問や観察などにより、よほど的外れな考えをしなくてすむかもしれませんが、他人が本当はどう思っているかは、それが他人である以上永久にわかる事はないでしょう。例えその他人が本当の事を語ってくれて、それが嘘であるという可能性が0%に収束していっても、決して0%にはならない。
「他人の気持ちを察する」という行為には、どんなに相手を理解していると自負していても必ず少なからずエゴが紛れ込んでいるはずなのです。「俺、めっちゃ他人の事思いやれてるわ~~~」と悦に浸っている奴が気持ち悪いのは、他人の事を深く思いやられている「美しく献身的な自分」しか見ておらず、自分は無償で他人のためになれていると勝手に妄想している「エゴイスティックな自分」は見ておらず、ましてやそんな自分が存在しているなどとは想像もしていないから。勝手に思っているほど他人は単純ではないはずです。
私は以上の事より他人への100%献身的な態度などはありえないと思います。全ての動物は自分にとって無益な事は決してしないのです。人間の全ての行動は、その行動をした人自身になんかしらの形によって利益をもたらしているものだと思います。全くの無償の行動など有りはせず、そんな行動は敗北です。
「友人を慰めてあげた」などの行為をして『私は「友人を慰めてあげてる自分、かっこいい!」などのエゴイスティックな気持ちは全くなかった』と、何やら無償の献身と勘違いしてしまういけ好かない野郎は山ほどいますが、それは気味の悪いオナニーのような思惑が本当に心になくとも、「自分の友達が慰められた」という利益が自分自身に還元されているはずです。人はもっとエゴイスティックな自分に気づけば生きやすくなると思います。
あと、あまり関係ありませんが「モモ」のモモと時間泥棒と「千と千尋の神隠し」の千尋とカオナシはなんか似てますよね。
時間泥棒は人々にまるで必要のない時間節約の必要性、価値観を説きます。人々はその価値観を刷り込まれてしまい、自分の価値観ではなくその時間泥棒の価値観により自分自身のためではない(時間泥棒のための)時間節約を初めてしまいます。しかし、モモはまるで時間を節約する必要性を感じないため最後まで他人(時間泥棒)のための時間を節約しません。
カオナシは他人が望むものを何でも出す事ができます。周りの人々は自分が望むもの(あの映画では金)に色めき立ちますが、千尋はカオナシが出すものにまるで興味を示さないため千尋に手が出せない。
千尋は正直それどころじゃなかったのかもしれませんが、千尋もモモも全く悪意のない、自分への純粋な利益を考えていると思います。「モモ」の人々は「自分のためにしている」と思っているが時間節約は結局時間泥棒へのためでしたし、「千と千尋の神隠し」の人々は「自分のために金を集めている」と思っているが、その金の価値は自分だけの価値観ではなく他人がどれだけ価値があると思っているか、という事に重きが置かれている。
別に自分への純粋な利益は我儘ではないのです。いかに自分の行動の原因に他人の価値観が混ざりこんでいないかだと思います。
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