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面白かったし、予想外に泣けましたというのが感想でしょうか。
前作2作は評判でぼっこぼこに叩かれてましたけど、これは多くの人に普通に良い映画と思われるんじゃないかな。私も前作2作は今でもちょっと難しい映画だと思います。でも「大日本人」は板尾さんが大爆笑したって言ってたらから、松本さんと板尾さんにオーディオコメンタリーで全編どこが面白いと思ったか、それとその理由をぜひ聞いてみたいです。

野見さんの野良犬みたいな汚らしさが妙にリアルで面白かったし、本当に上の歯がほとんど無かった。

以下ネタバレ。


この作品は不思議な感動に包まれている。最後の父から娘に宛てた手紙が感動的なのは当たり前なのだが、途中の業のカステイラ辺りからウッとなってしまうような気持ちになり、風車を必死で(本当に必死で)回そうとする野見さんを応援したくなり、そして切腹のシーンでは娘に見せる笑顔のようなものが、あんなブッサイクなのにめちゃくちゃかっこよく見える。

何故頑張る野見さんの姿に感動するのか?ということに「恥や外聞を捨てて必死で誰かを笑わそうとする姿勢、純粋さに感動する」と思われるかもしれないが、これは私はちょっと違うと思う。

野見勘十郎は言わずもがな野見隆明という男をモデルにしている。野見勘十郎は勝手に脱藩した罪で捕まって、若君を笑わせなければならなくなり、そこで頑張る。

野見隆明という男性は「働くおっさん人形」と「働くおっさん劇場」の二つの番組に出ていた最強のド素人と評される人である。野見さんを前々から知っている人はラジオ番組「放送室」などで語られる本当の野見隆明を知っているかもしれないが、これがちょっとすごい。

まず、画商のようなものをやっていたと言っていたが、実はこれは嘘であるらしい。昨日の笑っていいとものテレフォンショッキングに出ていた松本が言っていた。好きな女性のタイプはと聞かれて「吉永小百合さん」と答えるがただのモー娘。オタクであった。胸ポケットにケータイを入れているが、お金が遣り繰り出来なくってとっくに通話できなくなっている。これは刀は無いが最後のプライドとしてさやだけは持っているさや侍という設定に反映されている。

また、この映画の撮影中にミーハー精神と優しくされると甘えてしまう性格で、多分優しかったであろう竹原ピストル(元・野狐禅)にタバコを一箱半もらいタバコしていたり、お金をもらってはパチンコで負けて来たり、交通費を50円余分に請求したり、野見さんが疲れて「ハァハァ」言っている時は8割が嘘だったり、女性スタッフが近づいてきたらいい恰好をしたり。

これらのエピソードで分かる通り野見隆明という男は所謂「純粋である」という言葉では到底表現出来そうもない、虚栄心の塊のような、風呂にもあまり入らないず、上の歯が2本しかない、色んな意味で汚らしいおっさんである。

ただ、松本がインタビューで語っていたが野見隆明という男は「誰でも出来ることが出来なくて、誰にでも出来ないことが出来る、何でもやっちゃうサービス精神を持っている男」である。

何故野見さんは何でも必死でやっちゃうかっていういと野見さんは「誰よりも自分が格好悪いということを知っている男」であるからだと思う。画商をやっていたというのも、そのようなスマートな職業をやっていないと格好悪い業と思ったからだろうし、ケータイを持っているのも社会人としてそれを持っていないと格好悪いと思ったからだろうし、吉永小百合さんが好きと言ったのも、自分のようなオッサンがモー娘。が好きというと格好悪いからと思ったからだろうし、兎に角自分を良く見せよう良く見せようと必死なのだ。

本当に野見隆明という男は「空っぽのダメダメの無意味な人間」なのである。しかし、それを誰よりも野見隆明自身が一番知っているのだと思う。だから「働くおっさん劇場」などでも松本などに言われた指令を全力で完遂し、必死で「意味のある男」になろうとしているのだと思う。「働くおっさん劇場」での「意味のある男」とは「ウケることが出来る男」であるが、野見さんは素人でお笑いのことなど微塵も分からない、だから遮二無二頑張ってしまう。また、今までに上げた野見隆明が吐いてきた嘘というのは汚い方法ではあるものの「意味のある男」になろうとする必死さから出てきたものだろう。

そして、この野見隆明の人物像がまるまるそのままさや侍という人物像に当てはまる。さや侍は妻の死で抜け殻状態になり、それ以来刀を持つことを拒否し、戦う事を拒否し続けている侍である。しかし、最後のプライドとしてさやだけは手放してはいない。侍の魂である刀を捨てているさや侍は文字通り魂を捨てた空っぽの「無意味な男」である。その侍が奇妙な業を通して「恥辱にまみれながらも戦い、自分の中に一生懸命意味を見出そうとしているその姿」に感動しているのだと思う。正直若君とか知ったこっちゃないと思う。これは野見さん一人の戦いだったのだ。

切腹のシーンでは何か一言でも言えば若君が笑わずとも助かるというところまで来ていたが、さや侍は何も言わず、今まで手に取ることが出来なかった刀を手に取り切腹し、さやにそれを納めて死んでいく。「何で死んじゃうの!」とか「それは逃げじゃないの?!」とか「残された娘の気持ちも考えて!」とかって思う人もいる思うし、私も「うっそ~ん」って感じになりました。てっきり僧とぶつかった時に血糊でも受け取って一笑いあるのかなと思ったらマジだった。まあ、あれが今まで刀を捨て、戦いから逃げて来ていたさや侍の「侍としての意味を取り戻す行為」というか、ケジメの付け方だったのかな。

あの思わせぶりな僧が竹原ピストルだったというのはこの映画一番のサプライズでした。松っちゃんが絶賛していた野狐禅だった方ですね。

後、全く笑えなかった人って野見さんが何やってるのかって事しか見ていないと思う。どこが笑う所か赤ペンで丸く囲ってマーク付けてもらえないと自分で笑う事が出来ないなんてなんか悲しいと思います。自分で面白いと思うところを積極的に見つけようとして、勝手に笑ったったらいいと思います。
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