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おもしろいことをたくさんしたい
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三島由紀夫の作品は分かりやすく書かれているようで、回りくどかったり、登場人物が自分の行動を理解していなかったりと、何かと分かりずらいような気がする。

愛の渇きという小説では悦子というヤバイ女のことがずっと書かれている。
私が読んだ感じ、悦子の行動原理は良人が腸チフスになった時とかから最後まで変わっていないのではないかと思ったりする。

だからなんとか良人が腸チフスに侵されてから死ぬまでの悦子の行動を理解しようとするのだが、これが難しい。

悦子と良人の関係は冷め切っていて、良人は外に多くの女を作っている。悦子もそれに気付いている。むしろ良人は悦子にそれを気づかせてその反応を楽しんでいる、という感じなのである。良人が腸チフスになるまでは、なんていうか不幸な奥さんっていう感じで、二度ほど服毒自殺を遂げようとするような月並みな女(?)のように感じる。

しかし、良人が腸チフスになってから悦子はヤバくなる。というかそれより前にそうとうヤバくなっていたのだが、それがそれを契機に表に出てきちゃったように見える。良人が腸チフスになってからの悦子の行動で重要な独白となっているのは文庫版p54のところだと思う。

『もし良人が、もし良人がこの女を少しも愛していないのだったらどうしよう。私の苦しみは皆無駄になる。良人と私はたあだ空しい遊戯の苦しめ合いをしていたにすぎなくなる。それでは私の過去はみんな空虚な独り角力になってしまう。良人の目のなかに、今、どうしてもこの女への愛を見出さなければ、私は立ちいかない。もしかして、良人がこの女を、このほかの私が面会を断った三人の女のどれをも、愛していなかったとなれば、・・・・ああ!今さらそんな結果は怖ろしい。』

ヤバい女悦子!悦子はなんとかこの愛人と良人の面会に即して、良人がこの愛人を愛しているという印を必死で探そうとします。そしてそれらしきものは見つかる。何故悦子はそんなことをするのか。それは悦子は愛人に嫉妬をしたいからだと思う。この作品にはよく嫉妬という言葉が出てくる。

つまり、今までの愛人のことを良人が愛していなければ、今までしてきた悦子の嫉妬に意味がなくなってしまうということを悦子は恐れていて、それは本文中にある「私の過去はみんな空虚な独り角力になってしまう」ということなのだろう。とにかく悦子は嫉妬がしたい。

でもなんで嫉妬なんかしたいか。嫉妬という意味は次のようになっている。
[1] 人の愛情が他に向けられるのを憎むこと。また、その気持ち。特に、男女間の感情についていう。やきもち。悋気(りんき)。

[2] すぐれた者に対して抱くねたみの気持ち。ねたみ。そねみ。

悦子は良人の愛情が自分ではない愛人に向けてられていることに嫉妬をしているのだし、嫉妬をしたいと思っている。これは悦子が良人を愛してるということに他ならないのではないだろうか。良人を愛しているからこそ、自分が愛されずに愛人が愛されるとうい状況に嫉妬をしています。思うに、悦子は嫉妬をしなければ相手を愛しているということを実感できないのではないかと思う。

だから「嫉妬をする自分」無くして「人を愛する自分」というものが存在しないのではないだろうか。ここらへんがタイトルの「愛の渇き」というのに関係しているように感じる。

また、「良輔が健康になってはならない。健康になればまた逃げてゆく。飛び去ってしまう。」という言葉にあるように悦子は良人を愛していたと思いますし、愛するものへの独占欲がものすごく強いようです。愛人がお見舞いに来たときに腸チフスであることを告げられた愛人が愛する良輔の前でぎこちない動きになったのを見て、良人に真に献身的(?)に接せられるのは自分だけであると優越感を感じていましたし。

良人が助かることを憎み、早く死んで自分だけのものになることを望んでいるように感じます。また最後三郎を殺してしまったのも同様に自分だけのものにしたかったからなのかも。もとからそうなのか、途中から壊れてしまったのか、悦子のエゴイズムは半端じゃありません。

良人の愛人に嫉妬していたように、舅のところで生活を初めても美代という女に嫉妬をし始めます。愛を向ける矛先は三郎です。三郎がいない間に美代を解雇して、それを三郎に追わせようとして、またそこに嫉妬しようともします。めちゃくちゃです、悦子。

最後、三郎が本当に悦子を女として見て、体を求めてきますが、この時悦子はそれを喜ぶ反面助けを求める声を上げてしまいます。これは嫉妬がなくなった関係に悦子は愛を見出せないため、このままでは三郎を愛せなくなるからなんではないでしょうか。

悦子はこれからもずっと嫉妬してくんでしょうね。
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面白かったし、予想外に泣けましたというのが感想でしょうか。
前作2作は評判でぼっこぼこに叩かれてましたけど、これは多くの人に普通に良い映画と思われるんじゃないかな。私も前作2作は今でもちょっと難しい映画だと思います。でも「大日本人」は板尾さんが大爆笑したって言ってたらから、松本さんと板尾さんにオーディオコメンタリーで全編どこが面白いと思ったか、それとその理由をぜひ聞いてみたいです。

野見さんの野良犬みたいな汚らしさが妙にリアルで面白かったし、本当に上の歯がほとんど無かった。

以下ネタバレ。
「ジャッカス」っていうアメリカの番組があって、今この映画が上映されたりしてます。
で、この「ジャッカス」という番組はいい大人がとんでもない馬鹿なことをやるというもので、とんでもない内容のイタズラだったり挑戦をするという奴で詳しくはYoutubeでも見れば感じが分かると思うんだけど、この「ジャッカス」が好きな人の中に、なんていうか楽しみ方が違うというか何か好きになれないタイプの人がいます。

そーゆー人がよく言うのは「こいつらは本物の馬鹿だ!これぐらい馬鹿じゃないと芸人じゃない!!」とか「彼らはリアクション芸人の鏡だ!日本の甘ったれた面白くない芸人は見習って欲しい!」とか言うんですよね。

何がおかしいって日本の所謂リアクション芸人というのは建前上罰ゲームだったりの形式で、嫌々やっててそのリアクションを面白がるというやつで、「ジャッカス」に出ている人は自ら進んであーゆー行為をしている訳なので、これでリアクション芸人と比較するのは全く違うと思います。

で、じゃあ「ジャッカス」は面白くないのかっていうとそうじゃなくて、イタズラだったり挑戦が常識外れというか、とんでもないスケールのものだったり、とんでもなくくだらなかったり、やっている事の発想は面白いと思うんですよ。でも、「ジャッカス」を面白がってる人の中になんか違和感を感じる人がいて、何かっていうと「彼らの馬鹿さ加減を楽しむ」というのがあって、これはなんか違う気がするんですよね。

何か「ジャッカス」の中に自分の身を置いて、自分と「ジャッカスの中の大人」との頭の良さ、知性の距離の絶対値で笑っている、要は「あいつらが自分よりいかに馬鹿か」という一点のみで笑ってる気がしてなりません。「あいつらがいかに馬鹿か」という事で笑っていて、肝心のイタズラだったり挑戦の本質的な面白さを全く見ていないんじゃないでしょうか。

  それも一つの楽しみ方だ!って言われたらそれまでですけど、それだけの見方しかできないのに、「日本の芸人は面白くない」とか言うのは腹立ちますね。こういう奴らって自分より面白い奴が好きなんじゃなくて、自分より馬鹿な奴が好きなんだと思います。テレビの中の芸人が面白いかどうか、ということに自分の頭がいいか悪いかということは全く関係ないのに。





こういうタイプのでよくあるのは、食べ物が粗末にされてるコントとかで「食べ物を粗末にするな!」ってクレームを本気で入れちゃう人がいると思うんです。キャシィ塚本とかのコントで結構食べ物が滅茶苦茶にされているんですけど、間違っても「食べ物が粗末になっているという事が面白い」のではないという事です。料理番組という極めて秩序が保たれているであろう番組のフォーマットの中でのキャシィ塚本の滅茶苦茶な言動が面白いのであって、食べ物が粗末になっている、なっていないなどということはこの面白さに全く影響していないように思います。

「笑う」という行為は面白い点を自ら見つけて笑うというもので、受動的な行為ではなく能動的な行為なのだいうことです。
最近読んだ中でもこれはちょっとすごいぞ!
小島正樹っていう人の作品は初めて読んだんだけど、この人熱い本格を書くな!と思いました。 

龍の寺でどんどん人が晒し首にされる殺人事件がどんどん起きる、あらすじはそんな感じ。

ネットで見た感じのこの本の悪い点は「トリックに無理がある、トリックが鮮やかじゃない」ということだと思う。これは私も感じました。なんでこの本に限ってそこを激しく突かれるか?というこの本は島田荘司が主催する本神ミステリワールドスペシャルという企画の第1弾で、帯だったり宣伝文句がとにか島田荘司ばりの奇想天外でとんでもないほど大きな謎を提示してしまってるからだと思う。

消える生首、ボートを漕ぐ首なし死体、空を飛ぶ龍・・・
ここまで言われてテンションが上がらない方がどうかしてますが、確かにこれらの期待に肝心要のトリックが答えられているか?というとこれはちょっと期待外れな感じがしてしまう。なんていうか描写の力に助けられすぎてるかなーってな感じで、多少無理があるトリックになんとか納得しても、そのトリックに鮮やかさがない、というかトリックにヤラレタ感が弱いです。

それってミステリーで致命的なんじゃー?って思うかもしれないんですけど、それであっても余りある本格スピリッツが溢れていると感じました。とにかく終盤のどんでん返しや伏線の回収など、無駄な部分が全くなかったんだなと思わずにはいられない出来だったと思います。この終盤での昂揚感は本格ミステリーでしか味わえないものだと思います。

事件の内容に反して文章が非常に軽く探偵の海老原や警察の浜中のキャラクターがとてもコミカルで重厚な感じはしなかったです。ただとっても読みやすいのも個人的にこの本の良さだと思いました。

約400ページという長さで奇跡的な密度だったと思います。
ネタバレあり!

ミスター・ノーバディって映画は東京だと渋谷と立川でしかやっていなくてかなりもったいないと思う。

あらすじは、未来の世界で人間は科学の力で不死身になる中、人類最後の老衰によって死にそうな老人が自分はどんな人生を歩んで来たか思い出すもの。

ミステリーっぽくもありSFっぽくもあるが最後はかなり爽やかに終わる。

最初にこの映画の気に入らない部分を先に言っておく。それはフランス映画によくあるラブシーンで、まあこの映画に限った事じゃないんだけど毎度のことながら全く楽しめない。なかなか情熱的にアンナとごそごそしてくれてるけど、なんか眠たくなっちゃうぞ。

フランス人って本当にあんなセックスしてるのかな。ニモとアンナが親が出掛けた隙にエッチするシーンとかかなり激しくて、よくある感じだけどダイニングのテーブルの上の物をざざーっと下に落として「ニモはんはもう辛抱たまらんでー!」ってなようにテーブルの上でおっぱじめたりするんだけど、落としたミルクで床べったべたになってないかの方が気になるぞ!


この話は老人がどんな人生を歩んでいていたか必死で思い出してそれを医者や記者に話すんだけど、話す内容が全部違くってどれが本当の人生なのか混乱する。話は「あの時こうしていたら」のバタフライエフェクト形式で進んでいってものすごい数のパラレルな話が展開されるが最後にオチはつく。

その他の全ての演出が小気味よかったり、テンポがよかったりですごい。CGとかもよく出来てたと思う。

見た感じ「9歳の男の子の妄想」だったか「老人は本当に存在し、本当の近未来の話である」の2つかと思う。でも最後のあたりに老人が言う言葉がこの映画にとって本当に大切であって、真相がどっちであれその意味と価値は変わらないと思う。

パラレルな話は9歳の男の子が父と母どちらにつくか、そのどちらが良いか選択するために一瞬に想像したものだけど、結局そのどれにも正解なんかなくてそのために選択を出来ずにいる。で、男の子はどちらでもない、想像もしてない線路の外側に駆け出していく。男の子は木の葉を飛ばし、自分が生まれてこなかった世界を想像し老人のいる未来を消し去る。

でも個人的には老人に本当に存在して欲しいかな。老人はもうボケちゃって自分の人生を覚えてなくて、それを必死で思い出そうとするんだけど結局どれが本当の人生かは分からない。でも老人はそのどの人生にもちゃんと意味はあって、どの人生だろうと無駄じゃなかったと言い切り、自分は幸せだと認識しながら死んでいく。うーん、素敵な終わり方です。

もう一回見たくもあるけどなかなか辛いシーンがあり気軽に見れないかも。
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