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町山智浩さんの<映画の見方>がわかる本、ブレードランナーの未来世紀を読んだ。
町山さんは私がもっとも信頼している映画評論家です。博士も知らないニッポンのウラ、博士の異常な鼎談で知りました。
町山さんの評論は他の評論と何が違うかって、とにかく監督、脚本家などのインタビューや製作のための資料などを出来る限り集め、そしてその作品の周辺に絡み合い影響をし合っている膨大な作品群を紐解き、その中からこの作品は何を表したかったかなどを説明していくため、とても納得がいく。独りよがりのどーでもいい感想になっていないのだ。また、めちゃくちゃ博識な方でその作品が作られた時代背景や思想の歴史などの観点からも説明がなされている。
難解で抽象的な言葉のレトリック、レトリックで分かったような分からないような評論を書いている奴とは一味も二味も違う。っていうか抽象的な言葉ばっかり使ってちっとも具体的な話や具体例を出してくれない評論家は何を思って書いているのかな。分かって欲しいなんて鼻から思っていないのか。
で、この「ブレードランナーの未来世紀」なんですが、映画は「ビデオドローム」、「未来世紀ブラジル」、「プラトーン」、「グレムリン」、「ターミネーター」、「ブルーベルベット」、「ロボコップ」、「ブレードランナー」のことが書かれている。どれをとってもへぇー!の連続なのだが、中でも「ブレードランナー」の評論は本当に面白かった!前作である70年代の映画を評論した「映画の見方が分かる本」での「ロッキー」の評論を見て泣きそうになったけど、こっちも相当すごいものだった!
よく「ブレードランナー」の原作はフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」であると言われるが、監督のリドリー・スコットは「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んでいないというのがまず驚き!amazonのクチコミで原作の小説の方が映画よりも数段上だっとか言ってる奴は恥ずかしがって欲しい。
デッカードの人物像の元になった作品などを数多く上げ、そこらへんの部分も十分に楽しめるが、中でも素晴らしいのが「ブレードランナーとポストモダンの関係」である。こんなこと丁寧に書いてくれる評論家って町山さんだけだと思う。
簡単に本に書いてあったことをまとめると、ブレードランナーの時代までに三つの時代がある。それは近代以前(モダンより前)と近代(モダン)とポストモダン(モダンの次)である。
近代以前(16世紀以前ぐらい)はキリスト教の教義や伝統が支配的だった。この時代の「物語」とは「聖書」であり、「主人公」は神であり、人は脇役に過ぎない。人は「聖書」に書かれていることを良きものとし、神様の操り人形のようにその通りに行動をしていた。
しかし、近代(17、18世紀以降)ではルネッサンスの人文主義やフランスの啓蒙主義、科学の発展により、何やら神という存在が嘘っぽく思えてきたり、人間が作るものにも価値があると思い始め、「物語」は「日常に流されていた主人公が、現実に潜む問題に目覚め、自分の意志が状況を改善しようと行動する」というものになり、人間が神から「主人公」の座を奪い取った。この近代(モダン)には「勉強して立派な大人になって世の中を良くしましょう」という大きな物語が根底にあったのだ。
つまり、この近代(モダン)では「頑張れば世界は徐々により良く発展していく(啓蒙→主体的になる→全体の進歩)、そして世界にその秩序をもたらす主人公(ヒーロー)はこの俺様だ!!」ということなのだ。
しかし、ポストモダン(モダンの次)の時代(1980年頃)に人間は自分達が思い描いていたようなプログレッシブで華やかなユートピアのような未来はどうやら来ないということが分かり始めてしまった。この頃に石油ショックがあったり、人類が月に立ったり、超高層ビルが建ち始めるんだけど、ここまで来ると人間も「なんか思い描いていたのとちょっと違うぞ・・・」と違和感を感じ始める。ユートピアのような未来はレトロ・フューチャー(かつて夢見ていた未来)になってしまったのだ。
ポストモダンの時代ではモダンの時代の「頑張れば世界は徐々により良く発展していく」という「物語」が崩壊してしまったのだ。「物語」が消えれば「主人公(主体)」が消える。そして、その主体を失くしてしまった主人公が「ブレードランナー」の主人公「デッカード」であるというのだ!この繋がりは身震いするほど綺麗だ。
確かにデッカードはなんとなくぼんやりしていて、ロイと戦っている時も今までのヒーロー像からは懸け離れた姿を曝け出している。というか、ロイ・バッティの方が断然かっこいい!!ただ、最後にデッカードはペガサスの折り紙を拾ってオットコ前の顔を見える(最後にやっと!)。
私達は「物語」のない時代を生きていて「何をどうしたらいいのか、何をやったらいいのか」よく分からないまま生きている。私はこれからの時代に近代(モダン)の時代の「物語」である「頑張れば世界は徐々により良く発展していく」ということの、『「より良い発展」とは具体的に何か』ということをみんなで考えることに、「人間がこれからどのように生きていけばよいか」という問題への解答のヒントが隠されているように感じる。
より良いハイテク機器を開発していくことがより良い発展なのか。差別をなくし人類みなが平等の世界を目指していくのがより良い発展なのか。宇宙へ移住していくことがより良い発展なのか。
とにかく、ぜひ、この「<映画の見方>がわかる本」はみなさん買ってそして読んでください。本当にすごい本だと思います。
町山さんは私がもっとも信頼している映画評論家です。博士も知らないニッポンのウラ、博士の異常な鼎談で知りました。
町山さんの評論は他の評論と何が違うかって、とにかく監督、脚本家などのインタビューや製作のための資料などを出来る限り集め、そしてその作品の周辺に絡み合い影響をし合っている膨大な作品群を紐解き、その中からこの作品は何を表したかったかなどを説明していくため、とても納得がいく。独りよがりのどーでもいい感想になっていないのだ。また、めちゃくちゃ博識な方でその作品が作られた時代背景や思想の歴史などの観点からも説明がなされている。
難解で抽象的な言葉のレトリック、レトリックで分かったような分からないような評論を書いている奴とは一味も二味も違う。っていうか抽象的な言葉ばっかり使ってちっとも具体的な話や具体例を出してくれない評論家は何を思って書いているのかな。分かって欲しいなんて鼻から思っていないのか。
で、この「ブレードランナーの未来世紀」なんですが、映画は「ビデオドローム」、「未来世紀ブラジル」、「プラトーン」、「グレムリン」、「ターミネーター」、「ブルーベルベット」、「ロボコップ」、「ブレードランナー」のことが書かれている。どれをとってもへぇー!の連続なのだが、中でも「ブレードランナー」の評論は本当に面白かった!前作である70年代の映画を評論した「映画の見方が分かる本」での「ロッキー」の評論を見て泣きそうになったけど、こっちも相当すごいものだった!
よく「ブレードランナー」の原作はフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」であると言われるが、監督のリドリー・スコットは「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んでいないというのがまず驚き!amazonのクチコミで原作の小説の方が映画よりも数段上だっとか言ってる奴は恥ずかしがって欲しい。
デッカードの人物像の元になった作品などを数多く上げ、そこらへんの部分も十分に楽しめるが、中でも素晴らしいのが「ブレードランナーとポストモダンの関係」である。こんなこと丁寧に書いてくれる評論家って町山さんだけだと思う。
簡単に本に書いてあったことをまとめると、ブレードランナーの時代までに三つの時代がある。それは近代以前(モダンより前)と近代(モダン)とポストモダン(モダンの次)である。
近代以前(16世紀以前ぐらい)はキリスト教の教義や伝統が支配的だった。この時代の「物語」とは「聖書」であり、「主人公」は神であり、人は脇役に過ぎない。人は「聖書」に書かれていることを良きものとし、神様の操り人形のようにその通りに行動をしていた。
しかし、近代(17、18世紀以降)ではルネッサンスの人文主義やフランスの啓蒙主義、科学の発展により、何やら神という存在が嘘っぽく思えてきたり、人間が作るものにも価値があると思い始め、「物語」は「日常に流されていた主人公が、現実に潜む問題に目覚め、自分の意志が状況を改善しようと行動する」というものになり、人間が神から「主人公」の座を奪い取った。この近代(モダン)には「勉強して立派な大人になって世の中を良くしましょう」という大きな物語が根底にあったのだ。
つまり、この近代(モダン)では「頑張れば世界は徐々により良く発展していく(啓蒙→主体的になる→全体の進歩)、そして世界にその秩序をもたらす主人公(ヒーロー)はこの俺様だ!!」ということなのだ。
しかし、ポストモダン(モダンの次)の時代(1980年頃)に人間は自分達が思い描いていたようなプログレッシブで華やかなユートピアのような未来はどうやら来ないということが分かり始めてしまった。この頃に石油ショックがあったり、人類が月に立ったり、超高層ビルが建ち始めるんだけど、ここまで来ると人間も「なんか思い描いていたのとちょっと違うぞ・・・」と違和感を感じ始める。ユートピアのような未来はレトロ・フューチャー(かつて夢見ていた未来)になってしまったのだ。
ポストモダンの時代ではモダンの時代の「頑張れば世界は徐々により良く発展していく」という「物語」が崩壊してしまったのだ。「物語」が消えれば「主人公(主体)」が消える。そして、その主体を失くしてしまった主人公が「ブレードランナー」の主人公「デッカード」であるというのだ!この繋がりは身震いするほど綺麗だ。
確かにデッカードはなんとなくぼんやりしていて、ロイと戦っている時も今までのヒーロー像からは懸け離れた姿を曝け出している。というか、ロイ・バッティの方が断然かっこいい!!ただ、最後にデッカードはペガサスの折り紙を拾ってオットコ前の顔を見える(最後にやっと!)。
私達は「物語」のない時代を生きていて「何をどうしたらいいのか、何をやったらいいのか」よく分からないまま生きている。私はこれからの時代に近代(モダン)の時代の「物語」である「頑張れば世界は徐々により良く発展していく」ということの、『「より良い発展」とは具体的に何か』ということをみんなで考えることに、「人間がこれからどのように生きていけばよいか」という問題への解答のヒントが隠されているように感じる。
より良いハイテク機器を開発していくことがより良い発展なのか。差別をなくし人類みなが平等の世界を目指していくのがより良い発展なのか。宇宙へ移住していくことがより良い発展なのか。
とにかく、ぜひ、この「<映画の見方>がわかる本」はみなさん買ってそして読んでください。本当にすごい本だと思います。
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